☆東スポがオリックスを評価してくれてるぞっ・・・
東スポWeb 宮崎5球団のキャンプを見て思った オリにV争いの予感
→『【球界こぼれ話・広瀬真徳】いよいよ“球春”が到来した。今、5球団がキャンプを張る宮崎で取材を続けている。どの球団も第1クールから実戦を見据えた練習を試みるなど、仕上がりの早さが目立つ。昨今のプロ野球選手はオフも手を抜かず、肉体強化に励む。球団もその動きを把握しているからこそ、キャンプ序盤から練習試合などを組んでいるのだろう。そんな各球団の仕上がり具合をひと通り視察した上で「もしかしたら優勝争いに絡むかも?」と期待を抱かせる不気味なチームがある。2015年シーズンから4年連続Bクラス(昨季リーグ4位)に沈むオリックスである。
このチーム、今季の下馬評は、とにかく低い。オフに昨季チームで唯一2桁勝利(10勝)を挙げた西勇輝がFAで阪神入り。長年エースとして君臨した金子弌大も自由契約後、日本ハムに移籍した。この投手陣の両輪を失っただけでも大幅な戦力ダウンなのに、チームの精神的支柱だった小谷野栄一が現役引退。ベテラン・中島宏之も巨人での再起にかじを切った。「若返り」と言えば聞こえはいいが、これだけ実績のある選手が一気に離脱となればチーム再構築は困難を極める。普通に見れば、下位争いが妥当だろう。個人的にもキャンプ前は、そう予想していた。
だが、実際に練習風景を見ると印象が一変した。今季からチームの指揮を執る西村新監督の下、若手が猛練習に励むだけではなく、一人ひとりが「定位置取りのチャンス」と目の色を変えている。ここ数年散見できたベテランの自己流調整も今年のオリックスに限っては皆無。外国人選手や守護神・増井ですら若手に交じって連日、汗を流す。今年にかける本気度がうかがえる。「実績のある選手がチームを去ったとはいえ、他の選手にしてみれば、それはレギュラーを奪えるチャンス。それに今、レギュラーを争う選手の個々の能力は高い。一軍で経験を積んで一人ひとりがレベルアップすれば、確実に優勝を狙える戦力です。決して強がりではない」とは、昨季まで3シーズン二軍監督を務め、今季から一軍野手総合兼打撃コーチに就任した田口壮コーチ。語気を強め、こう話す表情には自信さえ浮かぶ。
キャンプ初日から臨時コーチとしてチームを指導する山田久志氏も、不安要素の多い投手陣にこう期待を寄せる。「西や金子ら主力が抜けたのはチームには痛いよ。でも、誰かがいなくなって『困ったな』と思っている時って、意外と新しい選手が出てくる。球界には、よくあること。今年どれだけ(若手投手が)出てくるか。そこに期待したい」/まだキャンプ序盤。ペナントレースの予想は早計だろうが、チームの動きや選手の姿勢を見る限り…。今シーズンのオリックスは下馬評を覆す気がしてならない。』
→『【球界こぼれ話・広瀬真徳】いよいよ“球春”が到来した。今、5球団がキャンプを張る宮崎で取材を続けている。どの球団も第1クールから実戦を見据えた練習を試みるなど、仕上がりの早さが目立つ。昨今のプロ野球選手はオフも手を抜かず、肉体強化に励む。球団もその動きを把握しているからこそ、キャンプ序盤から練習試合などを組んでいるのだろう。そんな各球団の仕上がり具合をひと通り視察した上で「もしかしたら優勝争いに絡むかも?」と期待を抱かせる不気味なチームがある。2015年シーズンから4年連続Bクラス(昨季リーグ4位)に沈むオリックスである。
このチーム、今季の下馬評は、とにかく低い。オフに昨季チームで唯一2桁勝利(10勝)を挙げた西勇輝がFAで阪神入り。長年エースとして君臨した金子弌大も自由契約後、日本ハムに移籍した。この投手陣の両輪を失っただけでも大幅な戦力ダウンなのに、チームの精神的支柱だった小谷野栄一が現役引退。ベテラン・中島宏之も巨人での再起にかじを切った。「若返り」と言えば聞こえはいいが、これだけ実績のある選手が一気に離脱となればチーム再構築は困難を極める。普通に見れば、下位争いが妥当だろう。個人的にもキャンプ前は、そう予想していた。
だが、実際に練習風景を見ると印象が一変した。今季からチームの指揮を執る西村新監督の下、若手が猛練習に励むだけではなく、一人ひとりが「定位置取りのチャンス」と目の色を変えている。ここ数年散見できたベテランの自己流調整も今年のオリックスに限っては皆無。外国人選手や守護神・増井ですら若手に交じって連日、汗を流す。今年にかける本気度がうかがえる。「実績のある選手がチームを去ったとはいえ、他の選手にしてみれば、それはレギュラーを奪えるチャンス。それに今、レギュラーを争う選手の個々の能力は高い。一軍で経験を積んで一人ひとりがレベルアップすれば、確実に優勝を狙える戦力です。決して強がりではない」とは、昨季まで3シーズン二軍監督を務め、今季から一軍野手総合兼打撃コーチに就任した田口壮コーチ。語気を強め、こう話す表情には自信さえ浮かぶ。
キャンプ初日から臨時コーチとしてチームを指導する山田久志氏も、不安要素の多い投手陣にこう期待を寄せる。「西や金子ら主力が抜けたのはチームには痛いよ。でも、誰かがいなくなって『困ったな』と思っている時って、意外と新しい選手が出てくる。球界には、よくあること。今年どれだけ(若手投手が)出てくるか。そこに期待したい」/まだキャンプ序盤。ペナントレースの予想は早計だろうが、チームの動きや選手の姿勢を見る限り…。今シーズンのオリックスは下馬評を覆す気がしてならない。』
☆田口壮といえば今月はこーんなニュースもあった!!
神戸新聞NEXT 小学生が飛ばした風船 元大リーガーの自宅庭に
→『兵庫県加西市北部の山あいにある宇仁(うに)小学校(同市田谷町)の3年生全10人が、風船に綿の種とメッセージを付けて飛ばしたところ、約40キロ離れたプロ野球オリックスのコーチ田口壮さん(49)=同県西宮市=の自宅の庭に行き着き、同校に返事が届いた。田口さんの現役時代を知らない子どもたちも、父親らから当時の活躍を聞くなどして大喜び。田口さんは、種に添えられていた栽培方法を参考に「チャレンジしてみようと思います」としている。(森 信弘)/同校は全校児童62人。環境学習の一環で毎年、3年生が綿を無農薬で化学肥料も使わずに栽培・収穫し、糸を紡いで布を織る体験を行っている。昨年も5月10日(コットンの日)に種をまき、9月下旬に収穫。11月下旬、地域住民らを招いた学校行事で、種や育て方を書いた紙を付けた風船350個を空に放った。
風船を拾った人との交流や環境に優しい綿作りが広がる願いを込め、児童たちは「フワフワのわたができます」「大切に育ててください」といった手書きのメッセージや学校の連絡先も添えた。遠くは奈良や愛知、東京などからも返事が寄せられたという。オリックスの球団広報によると、田口さんは「児童がどんな気持ちで飛ばしたのかな、と想像した。これも何かの縁ですね」などと話しているという。田口さんは現役時代、堅守巧打の外野手として活躍。神戸を本拠としていたオリックスでイチロー選手(現・米大リーグマリナーズ)と共に、阪神・淡路大震災が起きた1995年のパ・リーグ優勝、96年の日本一に貢献した。2002年に米大リーグのカージナルスへ移り、06年にワールドシリーズ制覇も経験した。/同校の男児(9)は以前、父が動画投稿サイト「ユーチューブ」で田口さんの動画を見ていたため、大リーグでの活躍も知っていたといい「もっと種をプレゼントしたい」と笑顔。父がオリックスファンの女児(9)は「お父さんから、すごい人やと聞いた」と興奮気味に話した。「『ちゃんと手紙を書くのが田口さんらしいなあ』とお父さんが言っていた」との声も上がった。田口さんの手紙は額に入れて同校の玄関ロビーに掲示。「いつかみんなに会えることを楽しみにしています」と書かれており、仁尾浩校長(58)は「講演会に招くなど交流ができればうれしい」と期待している。』
神戸新聞NEXT 小学生が飛ばした風船 元大リーガーの自宅庭に
→『兵庫県加西市北部の山あいにある宇仁(うに)小学校(同市田谷町)の3年生全10人が、風船に綿の種とメッセージを付けて飛ばしたところ、約40キロ離れたプロ野球オリックスのコーチ田口壮さん(49)=同県西宮市=の自宅の庭に行き着き、同校に返事が届いた。田口さんの現役時代を知らない子どもたちも、父親らから当時の活躍を聞くなどして大喜び。田口さんは、種に添えられていた栽培方法を参考に「チャレンジしてみようと思います」としている。(森 信弘)/同校は全校児童62人。環境学習の一環で毎年、3年生が綿を無農薬で化学肥料も使わずに栽培・収穫し、糸を紡いで布を織る体験を行っている。昨年も5月10日(コットンの日)に種をまき、9月下旬に収穫。11月下旬、地域住民らを招いた学校行事で、種や育て方を書いた紙を付けた風船350個を空に放った。
田口さんからの手紙:加西市立宇仁小学校三年生の皆さん、こんにちは。十一月二十三日に空へと舞い上がったワタの種は、二十四日、兵庫県西宮市の我が家の庭にみんなの気持ちと共にやって来ました。育て方を参考にして、来年の五月にチャレンジしてみようと思います。私はオリックス・バファローズというプロ野球チームで、コーチをやっています。いつかみんなに会えることを楽しみにしています。オリックス・バファローズ背番号81 田口壮
※田口さんの文章は格別だ!「2軍監督」としてのほぼ日nブログも終わりを告げ、
目下、新しいブログ的なものは創られてないように思う・・・。ぜひとも、「新・
田口日記」の誕生を期待して待ちたい。。。1軍のコーチとしての手腕ももちろん
期待大だが、文章を書いてくれることの方を渇望してしまう自分がいる。。。
目下、新しいブログ的なものは創られてないように思う・・・。ぜひとも、「新・
田口日記」の誕生を期待して待ちたい。。。1軍のコーチとしての手腕ももちろん
期待大だが、文章を書いてくれることの方を渇望してしまう自分がいる。。。
●田口壮と福本豊の対談&矢野監督インタビュー(田口壮登場は13:49辺りから)
日刊スポーツ 田口壮コーチ「風化はない」オリックス震災黙とう 2019年1月17日
→『オリックスは17日、大阪・舞洲の球団施設で阪神・淡路大震災の犠牲者に哀悼の意を示し、1分間の黙とうを行った。西村徳文監督(59)、田口壮野手総合兼打撃コーチ(49)ら関係者約50人がグラウンドに並び、被害の激しかった神戸方面に向かって、目を閉じた。
震災が発生した95年には、「がんばろうKOBE」を合言葉に、リーグ制覇を実現。翌96年には2連覇と日本一を果たし、復興のシンボルになった。当時の主力選手だった田口コーチは「この時期がくると複雑ですよね。僕の中では風化しないですから。あれほど一体感のあるシーズンを送ったのは後にも先にもない。お互いに力を送り合う。人にはそういう力がある」としみじみと語った。
チームは96年を最後に優勝から遠ざかる。「チームとしては勝った時にあの時以来だね、となる。結果を出して、そういう話ができたらいい。ファンと被災された方を勇気づけられることを経験している。いろんな災害があるが、近い存在でありたい」と同コーチは力を込めた。「1・17」に思いを新たにし、23年ぶりの歓喜へチーム作りに励む。』
→『オリックスは17日、大阪・舞洲の球団施設で阪神・淡路大震災の犠牲者に哀悼の意を示し、1分間の黙とうを行った。西村徳文監督(59)、田口壮野手総合兼打撃コーチ(49)ら関係者約50人がグラウンドに並び、被害の激しかった神戸方面に向かって、目を閉じた。
震災が発生した95年には、「がんばろうKOBE」を合言葉に、リーグ制覇を実現。翌96年には2連覇と日本一を果たし、復興のシンボルになった。当時の主力選手だった田口コーチは「この時期がくると複雑ですよね。僕の中では風化しないですから。あれほど一体感のあるシーズンを送ったのは後にも先にもない。お互いに力を送り合う。人にはそういう力がある」としみじみと語った。
チームは96年を最後に優勝から遠ざかる。「チームとしては勝った時にあの時以来だね、となる。結果を出して、そういう話ができたらいい。ファンと被災された方を勇気づけられることを経験している。いろんな災害があるが、近い存在でありたい」と同コーチは力を込めた。「1・17」に思いを新たにし、23年ぶりの歓喜へチーム作りに励む。』
◎前ブログの最終回を貼ろう。
はじめての二軍監督
→『28:見ること。気にすること。・・・2018年、野球を教えてくれた父が亡くなり、愛犬の一匹もあとを追い、別れを噛みしめる間もなくシーズンが終わりました。しかし、いつの間にか14歳の息子の背丈は僕に追いついて、来季、一軍の「野手総合コーチ兼打撃コーチ」をさせていただくことが決まりました。失うものも、得るものもある中で時間は勝手に、そして力強く流れていきますね。それにしても「野手総合コーチ兼打撃コーチ」とは肩書きが長いのです。「なんて呼ばれてるの?」とヨメに聞かれて‥‥。「んー、『田口さん』かなあ」「『コーチ』は?」「ないなあ」「『野手総合!』は?」「そんなやつはもっとおらん」なんて呼んでもらってもいい。チームが強くなればそれでいいのです。二軍監督を3年間させていただいて、ついに一度もファンの皆さんに、選手に、優勝を経験してもらうことができませんでした。数字で順位を追えば、5位→4位→3位、おお、上がってるやないか、などと無邪気に喜べません。このまま来年2位になる、再来年優勝する保証はないのです。結果がすべてのこの世界。僕は監督として、チームとしての結果を残せなかったことを、この場をお借りしてお詫びいたします。
一方で、自分にとっては大変貴重な経験をさせていただきました。「いかに人を見るか」という人間観察に明け暮れた3年間。一軍と二軍の間を結ぶ中間管理職として、報告、連絡、相談の「ほうれんそう」を徹底するための方法は、相手の性格によって千差万別に変化するということを学びました。コーチや選手、一人一人の個性に合わせた取り組みが必要で、そのために「人を観察する」。自分の形を相手に押し付けて納得させるのではなく、相手を理解したうえで、その人にとって一番適した言葉や態度を見せなければ、伝わるものも伝わらないと。そうやって選手たちに一番汲み取ってほしかったのは、「見ること。気にすること」の大切さです。この3年間、若い選手たちには「目配り、気配り」という習慣を学んでもらいました。たとえばグラウンドに転がっているボール、ロッカーで倒れているスプレー缶を、見逃すか、もしくは見過ごすか。それとも気にして拾ったり、きちんと立てたりするか。そういった小さな行為は、その選手にとって大きな成長につながっていくのです。今更プロ選手にそんなこと言うの? 小学生の子育て?とご指摘を受けそうですが、当たり前のようで、案外できていない選手が多いのも残念な実態。埃の上を人差し指でつーっと撫でて、「掃除したって言ってるけど、こんなにまだやり残しが‥‥」などと嫌味を言うドラマの中の姑、きっと若い選手たちは僕のことをそんなふうに思っていたかもしれません。
だって、僕のロッカーがめちゃくちゃ整理整頓されてるわけでもないし、むしろ汚い。なのに人に言い続ける。しかし、グラウンド、ベンチの中、みんなで使うロッカールーム全体。こういった公共の場所への「気づき」こそがまずは第一歩です。バッティングや守備とは技術的にまったく関係ないようでいて、実はつながっている。何事にも気づくことができれば、いずれはそれが目先のことのみならず、広い視野に変わっていきます。バッターボックスや守備位置で、それまで見えなかったものが見え、気づかなかったことに気付くようになるのです。相手の動きが見られるようになるのはそこから先、つまり、二軍にいる選手は、プロとして相手と戦うレベルにまだ到達していないことが多いのです。たとえば風呂場の入り口に脱ぎ捨てられたスリッパを、最初のうちは「言われたから」、「義務感で」揃え直していても、そのうちバラバラである状態に違和感を抱き始めます。すると、寮内だけではなく、他の場所でも脱ぎちらかされたスリッパが気になり始める。こうなってくると、スリッパは最初から揃えて脱ぐようになるし、スプレー缶は使ったあと投げずに立てる。こうして「気づき」は広がっていきます。目線や気持ちを張り巡らせることは、プロ野球選手にとって大切な要素ですが、二軍にいる若い選手にはなかなかそれができません。自分自身を含め、目先のことでいっぱいいっぱいになっているからです。僕が徹底したのは、こういった「意識の広がり」の植え付けでした。一軍に上がっていった選手も、二軍で挑戦し続けている選手も、そして退団していったかわいい教え子たちも、この三年間で選手たちの視野はずいぶん広がったと実感しているし、いつかこの経験が、それぞれの場所で実を結ぶと信じ、願ってやみません。
これにて、「はじめての二軍監督」も終了。僕のたくさんの「はじめて」を支えてくださった、糸井さん、スタッフの皆様、そしてほぼ日読者の皆様の暖かな励ましに感謝の気持ちでいっぱいです。「はじめての野手総合コーチ兼打撃コーチ」でお会いしてもしなくても、球場で、街で出会ったらぜひ声をかけてください。僕らはこれからも「ほぼにちわ」でつながりつづけます。壮』
はじめての二軍監督
→『28:見ること。気にすること。・・・2018年、野球を教えてくれた父が亡くなり、愛犬の一匹もあとを追い、別れを噛みしめる間もなくシーズンが終わりました。しかし、いつの間にか14歳の息子の背丈は僕に追いついて、来季、一軍の「野手総合コーチ兼打撃コーチ」をさせていただくことが決まりました。失うものも、得るものもある中で時間は勝手に、そして力強く流れていきますね。それにしても「野手総合コーチ兼打撃コーチ」とは肩書きが長いのです。「なんて呼ばれてるの?」とヨメに聞かれて‥‥。「んー、『田口さん』かなあ」「『コーチ』は?」「ないなあ」「『野手総合!』は?」「そんなやつはもっとおらん」なんて呼んでもらってもいい。チームが強くなればそれでいいのです。二軍監督を3年間させていただいて、ついに一度もファンの皆さんに、選手に、優勝を経験してもらうことができませんでした。数字で順位を追えば、5位→4位→3位、おお、上がってるやないか、などと無邪気に喜べません。このまま来年2位になる、再来年優勝する保証はないのです。結果がすべてのこの世界。僕は監督として、チームとしての結果を残せなかったことを、この場をお借りしてお詫びいたします。
一方で、自分にとっては大変貴重な経験をさせていただきました。「いかに人を見るか」という人間観察に明け暮れた3年間。一軍と二軍の間を結ぶ中間管理職として、報告、連絡、相談の「ほうれんそう」を徹底するための方法は、相手の性格によって千差万別に変化するということを学びました。コーチや選手、一人一人の個性に合わせた取り組みが必要で、そのために「人を観察する」。自分の形を相手に押し付けて納得させるのではなく、相手を理解したうえで、その人にとって一番適した言葉や態度を見せなければ、伝わるものも伝わらないと。そうやって選手たちに一番汲み取ってほしかったのは、「見ること。気にすること」の大切さです。この3年間、若い選手たちには「目配り、気配り」という習慣を学んでもらいました。たとえばグラウンドに転がっているボール、ロッカーで倒れているスプレー缶を、見逃すか、もしくは見過ごすか。それとも気にして拾ったり、きちんと立てたりするか。そういった小さな行為は、その選手にとって大きな成長につながっていくのです。今更プロ選手にそんなこと言うの? 小学生の子育て?とご指摘を受けそうですが、当たり前のようで、案外できていない選手が多いのも残念な実態。埃の上を人差し指でつーっと撫でて、「掃除したって言ってるけど、こんなにまだやり残しが‥‥」などと嫌味を言うドラマの中の姑、きっと若い選手たちは僕のことをそんなふうに思っていたかもしれません。
だって、僕のロッカーがめちゃくちゃ整理整頓されてるわけでもないし、むしろ汚い。なのに人に言い続ける。しかし、グラウンド、ベンチの中、みんなで使うロッカールーム全体。こういった公共の場所への「気づき」こそがまずは第一歩です。バッティングや守備とは技術的にまったく関係ないようでいて、実はつながっている。何事にも気づくことができれば、いずれはそれが目先のことのみならず、広い視野に変わっていきます。バッターボックスや守備位置で、それまで見えなかったものが見え、気づかなかったことに気付くようになるのです。相手の動きが見られるようになるのはそこから先、つまり、二軍にいる選手は、プロとして相手と戦うレベルにまだ到達していないことが多いのです。たとえば風呂場の入り口に脱ぎ捨てられたスリッパを、最初のうちは「言われたから」、「義務感で」揃え直していても、そのうちバラバラである状態に違和感を抱き始めます。すると、寮内だけではなく、他の場所でも脱ぎちらかされたスリッパが気になり始める。こうなってくると、スリッパは最初から揃えて脱ぐようになるし、スプレー缶は使ったあと投げずに立てる。こうして「気づき」は広がっていきます。目線や気持ちを張り巡らせることは、プロ野球選手にとって大切な要素ですが、二軍にいる若い選手にはなかなかそれができません。自分自身を含め、目先のことでいっぱいいっぱいになっているからです。僕が徹底したのは、こういった「意識の広がり」の植え付けでした。一軍に上がっていった選手も、二軍で挑戦し続けている選手も、そして退団していったかわいい教え子たちも、この三年間で選手たちの視野はずいぶん広がったと実感しているし、いつかこの経験が、それぞれの場所で実を結ぶと信じ、願ってやみません。
これにて、「はじめての二軍監督」も終了。僕のたくさんの「はじめて」を支えてくださった、糸井さん、スタッフの皆様、そしてほぼ日読者の皆様の暖かな励ましに感謝の気持ちでいっぱいです。「はじめての野手総合コーチ兼打撃コーチ」でお会いしてもしなくても、球場で、街で出会ったらぜひ声をかけてください。僕らはこれからも「ほぼにちわ」でつながりつづけます。壮』
BASEBALL GATE オリックス・田口コーチ イップス、パニック…1年目のキャンプには「良い思い出ない」
→『【平成キャンプ回想録(4)オリックス・ドラ1田口壮】 いや、本当に良い思い出ないんですよ。僕は打撃で左肘が体から離れて脇が空く癖があって。大学(関学大)時代は自分で内角を打てるように編み出したんですけど、これを指摘されて。ゴルフスイングを矯正するゴムバンドを両手、両腕に巻かれて脇が空かないように練習したんです。スローイングも土井監督から「これでは無理だな」と言われて、3日目には送球イップス。打撃も守備も初日からいろんなことを言われてパニックでした。正直、大学までは教えられたことがなかった。監督からヒントをもらって、自分で考える習慣で。プロではガンガン指導されるのは当たり前なんでしょうけど、僕はなじみがなかったので悩んで悩んで…。ね、良い思い出ないでしょ。(オリックス野手総合兼打撃コーチ)』
※そういう苦労を経験したタグッつぁんだからこそ、悩める若手選手とかにも親身になってアドバイスができるんだと思う。今年は1軍コーチ元年!!!きっと去年までのオリを、目覚めさせて優勝争いできるレベルにまでチームを活性化させてくれると信じて・・・、本日はここまでとする!そうそう、早くブログも再開してネー♪
→『【平成キャンプ回想録(4)オリックス・ドラ1田口壮】 いや、本当に良い思い出ないんですよ。僕は打撃で左肘が体から離れて脇が空く癖があって。大学(関学大)時代は自分で内角を打てるように編み出したんですけど、これを指摘されて。ゴルフスイングを矯正するゴムバンドを両手、両腕に巻かれて脇が空かないように練習したんです。スローイングも土井監督から「これでは無理だな」と言われて、3日目には送球イップス。打撃も守備も初日からいろんなことを言われてパニックでした。正直、大学までは教えられたことがなかった。監督からヒントをもらって、自分で考える習慣で。プロではガンガン指導されるのは当たり前なんでしょうけど、僕はなじみがなかったので悩んで悩んで…。ね、良い思い出ないでしょ。(オリックス野手総合兼打撃コーチ)』
※そういう苦労を経験したタグッつぁんだからこそ、悩める若手選手とかにも親身になってアドバイスができるんだと思う。今年は1軍コーチ元年!!!きっと去年までのオリを、目覚めさせて優勝争いできるレベルにまでチームを活性化させてくれると信じて・・・、本日はここまでとする!そうそう、早くブログも再開してネー♪
年度・団体【1978年・新日本】 |
カテゴリー【名勝負】 |
見出し:『猪木と上田馬之助が釘板デスマッチ』 |
◎関連書籍、ニュース記事、試合動画、など。
●史上初世紀の釘板デスマッチ 3/3
※シンがタオル投入。釘で串刺しになる悲惨な結末を予想して
盛り上がった、ある種異様なこんな試合は、「腕折り」ぐらい
強いインパクトの決着にしないと収まりがつかなかったという
ところか・・・。
腕ひしぎ逆ブログ ネイルデスマッチとは何か?(1978)
→『営業部長として最前線にいた大塚直樹氏が当時を語っています。大塚「先に“俺はデスマッチはやらないよ!”と言われてしまったんですけど、“それなら絶対に逃げられないように、リングの周りを氷水が入った水槽で囲むのはどうでしょうか?”とか“リングの周りに割れたビールビンを敷き詰めるのはどうでしょう?”って僕がアイディアを出したんですね。そのうちに社長自身が“そうだ、五寸釘だ!”って言い出して、“ベニア板に五寸釘を打ちますか?”“そうだ、それだな!”と。ネイルデスマッチと命名したのも社長ですよ。それでデザイナーにネイルデスマッチのイメージ画を描いてもらって、テレビで宣伝してもらったんです」/猪木の「やらない」と言うデスマッチは“金網”の事を指します。上田の古巣、国際の二番煎じみたいな真似は絶対やらない、と。実際に新日が金網に踏み切ったのは、四半世紀後の2003年が初めてでした。大塚氏のアイディアは“水槽”、“割れたガラス”…、これ平成に入ってインディ団体で実行されたり、今年始動した巌流島のルール会議(参照:今の姿を観た訳だけど~前編~)で出された案じゃないですか?改めて書きますけど、この時点でまだ1978年ですからね。
結局、猪木の閃きで“釘板”に決定した訳ですが、大塚氏は、さらに突っ込んだ提案をします。(猪木毒本―いま、なぜイノキなのか? より)大塚:「ネイルのときも猪木さんに落ちてくれといったんですよ。“落ちる? 刺さるじゃねえか”“靴の下に鉄板を入れておけばいいじゃないですか”“そうか”。猪木さん、実際にやってみたらしくて“重いし硬くて歩けなかった”といってましたね(笑)」/「刺さるじゃねえか」、「鉄板を入れておけば…」、「そうか」。コントじゃないですよ! これを真剣に討論して、さらに猪木は鉄板入りシューズ試してみる、という。しかもこの2年前にも一度、鉄板入りシューズ作ってるんですよね(参照:神が仕組んでくれた闘い~前編~)。この“命懸け”と“エンターテインメント”が地続きの世界こそ猪木イズムなんです。』
※「刺さるじゃねえか!」それ実際の音声で聞いてみたかったなぁ~~w
→『営業部長として最前線にいた大塚直樹氏が当時を語っています。大塚「先に“俺はデスマッチはやらないよ!”と言われてしまったんですけど、“それなら絶対に逃げられないように、リングの周りを氷水が入った水槽で囲むのはどうでしょうか?”とか“リングの周りに割れたビールビンを敷き詰めるのはどうでしょう?”って僕がアイディアを出したんですね。そのうちに社長自身が“そうだ、五寸釘だ!”って言い出して、“ベニア板に五寸釘を打ちますか?”“そうだ、それだな!”と。ネイルデスマッチと命名したのも社長ですよ。それでデザイナーにネイルデスマッチのイメージ画を描いてもらって、テレビで宣伝してもらったんです」/猪木の「やらない」と言うデスマッチは“金網”の事を指します。上田の古巣、国際の二番煎じみたいな真似は絶対やらない、と。実際に新日が金網に踏み切ったのは、四半世紀後の2003年が初めてでした。大塚氏のアイディアは“水槽”、“割れたガラス”…、これ平成に入ってインディ団体で実行されたり、今年始動した巌流島のルール会議(参照:今の姿を観た訳だけど~前編~)で出された案じゃないですか?改めて書きますけど、この時点でまだ1978年ですからね。
結局、猪木の閃きで“釘板”に決定した訳ですが、大塚氏は、さらに突っ込んだ提案をします。(猪木毒本―いま、なぜイノキなのか? より)大塚:「ネイルのときも猪木さんに落ちてくれといったんですよ。“落ちる? 刺さるじゃねえか”“靴の下に鉄板を入れておけばいいじゃないですか”“そうか”。猪木さん、実際にやってみたらしくて“重いし硬くて歩けなかった”といってましたね(笑)」/「刺さるじゃねえか」、「鉄板を入れておけば…」、「そうか」。コントじゃないですよ! これを真剣に討論して、さらに猪木は鉄板入りシューズ試してみる、という。しかもこの2年前にも一度、鉄板入りシューズ作ってるんですよね(参照:神が仕組んでくれた闘い~前編~)。この“命懸け”と“エンターテインメント”が地続きの世界こそ猪木イズムなんです。』
※「刺さるじゃねえか!」それ実際の音声で聞いてみたかったなぁ~~w
日刊SPA! 上田馬之助の命日…初対面時の“喫茶店トーク”の全貌を公開
→『アントニオ猪木との“釘板デスマッチ”は、日本プロレス史に残る遺恨マッチとして語り継がれている。“狂虎”タイガー・ジェット・シンとの名コンビでは新日本プロレス、全日本プロレスの両メジャー団体で活躍した。以下は、筆者(斎藤文彦)が生まれて初めて上田さんにお会いしたときの“上田馬之助体験”(1983年=昭和58年夏)の再現である。
“金狼”上田馬之助さんは、テレビの画面から伝わってくる大悪役のイメージよりもはるかにやさしい目をしてそこに立っていた。こちらに向かって歩いてきた上田さんの第一声は「あんたたち、なにしてんの、ここで」だった。“あんたたち”とはターザン山本(週刊プロレス元編集長)に変身するまえの山本隆司記者と山本さんにくっついて歩いていたぼくで、“あんたたち”と呼ばれたぼくたちは、全日本プロレスの外国人選手が宿泊していた品川のTホテルのロビーでタイガー・ジェット・シンを待ち伏せしているところだった。上田さんから「あんたたち、お茶でも飲まない?」と声をかけられたぼくたちは、上田さんの後ろからついていくようにしてロビーのすぐよこの喫茶店に入った。腰がだいぶ悪かったのか、上田さんは前かがみになるような姿勢でゆっくりと歩いていたけれど、それでもやっぱり見上げるばかりの大男だった。
ぼくがとっさに山本さんに「どうしますか?」と小声でたずねると、山本さんは「よし、顔つなぎだ、顔つなぎ」と早口でつぶやいてから、ウンとうなずいた。21歳だったぼくは“顔つなぎ”というコンセプトをよくわかっていなかった。プロレスをやっていて、いちばん楽しかったことはなんですか――。その時点ですでにキャリア22年、43歳のベテランだった上田さんは、ぼくのシロウトっぽい問いかけに、びっくりするくらいていねいに答えてくれた。「楽しかったこと? そうねえ、これといってあんまりないねえ。オレたちだって、殴られりゃあ痛いし、リングの上じゃあイイ格好ばかりもできない。強いていえば、お金をたくさんもらえることくらいかな。アメリカン・スタイルがどうの、日本のスタイルがどうのなんていう人たちがよくいるけど、オレにいわせれば、アホかっちゅうの。オレらレスラーが体張って、いいレスリングをやれば、お客さんは喜ぶってことよ。プロなんだから、お客に喜んでもらえないファイトしてたんじゃ通用しない」「プロのレスラーっていうのは、技にしてもなんにしても、年月かけて、体でおぼえるもんでしょ。それを観にくるお客は高い入場料払って当然だし、オレたちレスラーはいいお金をもらわなくちゃ合わないわけよ。プロレスにアメリカも日本もないよ」
いまでこそフリーのプロレスラーはめずらしくないが、上田さんは旧日本プロレスが消滅したあと、フリーの日本人選手の草分け的存在として国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの3団体で活躍し、その後はNOW、IWAジャパンといったインディー団体のリングにも上がった。「オレは以前から日本に日本選手権がないのは絶対におかしいと思っていた。アメリカにはその州、その地区で認められたステーツ・チャンピオン、USチャンピオンというものがあるわけ。それが日本ではわけのわからない横文字のタイトルばっかりあって、なにかっていえばガイジンばかりにおいしい汁吸わせて。アホかっちゅうの」「オレは日本人対日本人の対決をメインイベントに持っていけといいつづけている。高い金払って、とっかえひっかえアメリカからガイジン呼んできて……。だから、日本のプロレスはなめられちまうっちゅうの」「日本の団体でやってるヤツらはみんな甘いっちゅうの。オレらが力道山先生に鍛えられたころは、なんでもいいから、ひとつこれだけは自分のものだというものを持てとね。いまの若い人たちはなに? 平気な顔でスープレックスだブレーンバスターだと重みもなにもありゃしない。あんなんじゃファンにだってなめられるっちゅうの」
“喫茶店トーク”が一段落すると、上田さんは「知ってる店に行くんだけど、あんたたちも来る?」とぼくたちをお酒の席に誘ってくれた。山本さんはまた「顔つなぎ、顔つなぎ」と呪文のようにくり返した。上田さんの行きつけのお店は、東急東横線の都立大学駅のすぐそばのちいさなスナックだった。上田さんがその日、話してくれたいろいろなことをぼくは拙著「いとしのプロレスinアメリカ」のなかでインタビューとして書きおこし、いちばん最後に(1983年7月、品川のホテルで収録)と記した。もう32年もまえのことなのに、あの強烈な体験はきのうのことのようにも感じられる。「日本はプロレスでも先進国。人気を保っていくには安定した地盤を築かなければ」/上田さんが語った“これからの日本のプロレス”は過去形になってしまったかもしれないけれど、上田さんのプロレス観そのものはちっとも古くなっていないのである。』
※♪~負け~るな 負け~るな 馬之助!男の生き様 見せてやれ~♪
→『アントニオ猪木との“釘板デスマッチ”は、日本プロレス史に残る遺恨マッチとして語り継がれている。“狂虎”タイガー・ジェット・シンとの名コンビでは新日本プロレス、全日本プロレスの両メジャー団体で活躍した。以下は、筆者(斎藤文彦)が生まれて初めて上田さんにお会いしたときの“上田馬之助体験”(1983年=昭和58年夏)の再現である。
“金狼”上田馬之助さんは、テレビの画面から伝わってくる大悪役のイメージよりもはるかにやさしい目をしてそこに立っていた。こちらに向かって歩いてきた上田さんの第一声は「あんたたち、なにしてんの、ここで」だった。“あんたたち”とはターザン山本(週刊プロレス元編集長)に変身するまえの山本隆司記者と山本さんにくっついて歩いていたぼくで、“あんたたち”と呼ばれたぼくたちは、全日本プロレスの外国人選手が宿泊していた品川のTホテルのロビーでタイガー・ジェット・シンを待ち伏せしているところだった。上田さんから「あんたたち、お茶でも飲まない?」と声をかけられたぼくたちは、上田さんの後ろからついていくようにしてロビーのすぐよこの喫茶店に入った。腰がだいぶ悪かったのか、上田さんは前かがみになるような姿勢でゆっくりと歩いていたけれど、それでもやっぱり見上げるばかりの大男だった。
ぼくがとっさに山本さんに「どうしますか?」と小声でたずねると、山本さんは「よし、顔つなぎだ、顔つなぎ」と早口でつぶやいてから、ウンとうなずいた。21歳だったぼくは“顔つなぎ”というコンセプトをよくわかっていなかった。プロレスをやっていて、いちばん楽しかったことはなんですか――。その時点ですでにキャリア22年、43歳のベテランだった上田さんは、ぼくのシロウトっぽい問いかけに、びっくりするくらいていねいに答えてくれた。「楽しかったこと? そうねえ、これといってあんまりないねえ。オレたちだって、殴られりゃあ痛いし、リングの上じゃあイイ格好ばかりもできない。強いていえば、お金をたくさんもらえることくらいかな。アメリカン・スタイルがどうの、日本のスタイルがどうのなんていう人たちがよくいるけど、オレにいわせれば、アホかっちゅうの。オレらレスラーが体張って、いいレスリングをやれば、お客さんは喜ぶってことよ。プロなんだから、お客に喜んでもらえないファイトしてたんじゃ通用しない」「プロのレスラーっていうのは、技にしてもなんにしても、年月かけて、体でおぼえるもんでしょ。それを観にくるお客は高い入場料払って当然だし、オレたちレスラーはいいお金をもらわなくちゃ合わないわけよ。プロレスにアメリカも日本もないよ」
いまでこそフリーのプロレスラーはめずらしくないが、上田さんは旧日本プロレスが消滅したあと、フリーの日本人選手の草分け的存在として国際プロレス、新日本プロレス、全日本プロレスの3団体で活躍し、その後はNOW、IWAジャパンといったインディー団体のリングにも上がった。「オレは以前から日本に日本選手権がないのは絶対におかしいと思っていた。アメリカにはその州、その地区で認められたステーツ・チャンピオン、USチャンピオンというものがあるわけ。それが日本ではわけのわからない横文字のタイトルばっかりあって、なにかっていえばガイジンばかりにおいしい汁吸わせて。アホかっちゅうの」「オレは日本人対日本人の対決をメインイベントに持っていけといいつづけている。高い金払って、とっかえひっかえアメリカからガイジン呼んできて……。だから、日本のプロレスはなめられちまうっちゅうの」「日本の団体でやってるヤツらはみんな甘いっちゅうの。オレらが力道山先生に鍛えられたころは、なんでもいいから、ひとつこれだけは自分のものだというものを持てとね。いまの若い人たちはなに? 平気な顔でスープレックスだブレーンバスターだと重みもなにもありゃしない。あんなんじゃファンにだってなめられるっちゅうの」
“喫茶店トーク”が一段落すると、上田さんは「知ってる店に行くんだけど、あんたたちも来る?」とぼくたちをお酒の席に誘ってくれた。山本さんはまた「顔つなぎ、顔つなぎ」と呪文のようにくり返した。上田さんの行きつけのお店は、東急東横線の都立大学駅のすぐそばのちいさなスナックだった。上田さんがその日、話してくれたいろいろなことをぼくは拙著「いとしのプロレスinアメリカ」のなかでインタビューとして書きおこし、いちばん最後に(1983年7月、品川のホテルで収録)と記した。もう32年もまえのことなのに、あの強烈な体験はきのうのことのようにも感じられる。「日本はプロレスでも先進国。人気を保っていくには安定した地盤を築かなければ」/上田さんが語った“これからの日本のプロレス”は過去形になってしまったかもしれないけれど、上田さんのプロレス観そのものはちっとも古くなっていないのである。』
※♪~負け~るな 負け~るな 馬之助!男の生き様 見せてやれ~♪
【今日のことば】「どこから登ったって、同じことだ。山はあすこに見えているんだから」――夏目漱石 |
【解説】
頂上へ至る道はあらゆるところにある。なんにせよ、自分自身で決めた道を黙々と歩んでいけばいい。迷う必要はない。そんな訓えととらえていいだろう。小説『虞美人草』よりのことばである。
ふと、禅の言葉「大道無門 千差路有(たいどうむもん せんさみちあり)」を想起する。悟りの世界に至るのに、門などはもうけられておらず、出入りは自由。どの道を選び、どこから入ればいいか、などというこだわりは不要である--。
毎年、全国の高等専門学校の生徒たちを対象としたロボットコンテストが開催されている。正式名称は「アイデア対決・全国高等専門学校ロボットコンテスト」。その模様はテレビで放送され、見ているとつい引き込まれる。知恵を出し合って作り上げたチームのロボットを、操縦者がコントローラーで操作して、荷物を運んで積み上げて高さを競うなど、与えられた課題をさまざまなやり方でクリアしていく。
似たような動きをするロボットでも、細部にはそれぞれオリジナルの工夫が織り込まれているし、中にはあっと驚くような奇想天外なアイデアを実現してくる生徒たちもいる。
これなども、さまざまな道筋から山頂を目指すのに似ている。
●アイデア満載 中学生のロボットコンテスト
※NHKとかでやってると、ついつい見てしまう大会だわねー。
●映画 『ロボコン』
※ポスターのまさみタンはモンチッチみたいだったw