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“世の中に何が尊いといって、愛と美ほど尊いものはないと思います(『吾輩は猫である』より)” |
【1910年6月11日の漱石】当時話題の2つの絵画展を見に上野まで出かける
今から106年前の今日、すなわち明治43年(1910)6月11日、43歳の漱石は、ふと思い立って上野で催されている2つの絵画展へ出かけた。白馬会と太平洋画会の2つである。/江戸川橋から上野広小路へと向かう市電に乗り込むと、途中、富坂付近の右手の空き地に、軟らかい緑色の若芽を吹いている木々が眺められた。舐(な)めてみたいと思うほどの、みずみずしい生命力に満ちた美しい色だった。そのうちの1本の木の下に、藁(わら)でくくった薪(まき)の束が高く積み上げてあり、その後方では砲兵工廠(こうしょう)の高い煙突からもうもうと煙が立ちのぼっていた。/この日は天気もよく、少しばかり暑さを感じた。つい1週間前に外出したときには、ちょっと肌寒いので、漱石は袷(あわせ)の着物に袷の羽織をつけていた。今日は、漱石自身も周囲の人々も、皆、単衣(ひとえ)の着物に絽(ろ)の羽織といったいでたちをしていた。
白馬会は、パリ帰りの黒田清輝(くろだ・せいき)らが中心となって明治29年(1896)に発足したグループ。かたや太平洋画会は、黒田らが抜けて弱体化した明治美術会が明治34年(1901)に解散したのを受けて、満谷国四郎(みつたに・くにしろう)、吉田博らが結成したグループ。『吾輩は猫である』の挿絵を描いた中村不折(なかむら・ふせつ)も、この太平洋画会に参加し、指導的役割を担っていた。/漱石は美術(絵画)から多くのインスピレーションをもらって、自身の作品世界に生かしたことで知られる。たとえば、小説『三四郎』の中に登場する「丹青会の展覧会」は、太平洋画会第6回展(明治41年)を意識したもので、遺作水彩画を展示する「深見さん」は漱石の友人だった浅井忠がモデルとされる。一方で、《仏蘭西(フランス)式の髭を生やして、頭を五分刈りにした、脂肪の多い男》である「原口さん」は、白馬会の中心画家・黒田清輝そのものだ。それは、《影の所でも黒くはない。むしろ薄い紫が射している》と描写される作風が、「紫派」とも呼ばれた黒田清輝のそれと一致することでも明らかだと、美術史家の古田亮(ふるた・りょう)さんも指摘している。
いずれにしろ、この日、白馬会と太平洋画会という、明治の洋画壇を背負うふたつの勢力の絵画展を同時に鑑賞できたのは、観る側にとっては嬉しいことだった。漱石は満ち足りた気持ちで帰宅したことだろう。その夜、窓を開け放った書斎に座っていると、暗い庭から、初夏の香りが心地よく漱石の鼻に伝わってきた。季節がまたひとつ、めぐろうとしていた。