☆小学校低学年の頃だろうか、単行本に載っていた「オバQ」の
中の1本が何故だか強烈に印象に残った。タイトルは「サテハ
ラタカ」。物忘れの激しいQちゃんが、正ちゃんのお父さんの
やり方をまねて忘れ物対策を図るのだが・・・という筋。オチがど
うしても思い出せず、長年捜し求めてきた話だった。今回、夢
が叶ったヤァー。有難う♪書籍化してくれた人!!深謝深謝ーー。
中の1本が何故だか強烈に印象に残った。タイトルは「サテハ
ラタカ」。物忘れの激しいQちゃんが、正ちゃんのお父さんの
やり方をまねて忘れ物対策を図るのだが・・・という筋。オチがど
うしても思い出せず、長年捜し求めてきた話だった。今回、夢
が叶ったヤァー。有難う♪書籍化してくれた人!!深謝深謝ーー。
新装版 オバQ公式HP(ためし読みも可!)
→『★第1巻内容:日本中に大ブームを巻き起こした「オバケのQ太郎」待望の続編。学年誌を中心に描かれ、再び大人気を博した名作中の名作です。1971年に小学館の学年誌で連載開始。「ドラえもん」と並行して描かれ、カラーアニメも大ヒット!1975年にはてんとう虫コミックスにもラインアップされ大人気を博しました。その後1985年には3度目のアニメ化。幅広い世代に人気者として愛され続けてきました。
藤子・F・不二雄の日常生活ギャグのまさに原点である本作は、ギャグのテンポがますますアップ!!「バケラッタ」のオバケ語が愛らしいO次郎、永遠のライバル・ドロンパ、QちゃんがぞっこんのガールフレンドU子さんほか、オバケたちのさらに際だったキャラクター性も魅力です。藤子・F・不二雄のギャグセンスが冴えわたった永遠の傑作を、『藤子・F・不二雄大全集』からの最新製版でお届けします。1巻では、5年ぶりに人間の世界に帰って来たQちゃんが、みんなの意外な反応に大ショックを受けます。一体何が起こったのか…!?(「Qちゃん、また来たの」)
〈 編集者からのおすすめ情報 〉U子さんのご機嫌に振り回されご飯も食べられなくなるQちゃん(「むっつりU子」)、ドロンパの創刊した「オバケ新聞」で記者として大ハッスルするQちゃん(「鬼かんとくゴジラ」)、Qちゃんに弟子入りしたがるタヌキが登場(化け方ならいたいでヤス」)、O次郎に対してお兄さんらしく振る舞おうとするほほえましいQちゃん(「サンタはくろうする」)、などなど、どれも大爆笑必至の傑作ぞろいです!』
→『★第1巻内容:日本中に大ブームを巻き起こした「オバケのQ太郎」待望の続編。学年誌を中心に描かれ、再び大人気を博した名作中の名作です。1971年に小学館の学年誌で連載開始。「ドラえもん」と並行して描かれ、カラーアニメも大ヒット!1975年にはてんとう虫コミックスにもラインアップされ大人気を博しました。その後1985年には3度目のアニメ化。幅広い世代に人気者として愛され続けてきました。
藤子・F・不二雄の日常生活ギャグのまさに原点である本作は、ギャグのテンポがますますアップ!!「バケラッタ」のオバケ語が愛らしいO次郎、永遠のライバル・ドロンパ、QちゃんがぞっこんのガールフレンドU子さんほか、オバケたちのさらに際だったキャラクター性も魅力です。藤子・F・不二雄のギャグセンスが冴えわたった永遠の傑作を、『藤子・F・不二雄大全集』からの最新製版でお届けします。1巻では、5年ぶりに人間の世界に帰って来たQちゃんが、みんなの意外な反応に大ショックを受けます。一体何が起こったのか…!?(「Qちゃん、また来たの」)
〈 編集者からのおすすめ情報 〉U子さんのご機嫌に振り回されご飯も食べられなくなるQちゃん(「むっつりU子」)、ドロンパの創刊した「オバケ新聞」で記者として大ハッスルするQちゃん(「鬼かんとくゴジラ」)、Qちゃんに弟子入りしたがるタヌキが登場(化け方ならいたいでヤス」)、O次郎に対してお兄さんらしく振る舞おうとするほほえましいQちゃん(「サンタはくろうする」)、などなど、どれも大爆笑必至の傑作ぞろいです!』
お話は全16話
・Qちゃん、また来たの ・O次郎のおよめさん
・バケラッタ ヤメラッタ ・空とぶ電話
・化け方ならいたいでヤス ・オバケ新聞社
・サテハラタカ ・鬼かんとくゴジラ
・天才教育 ・むっつりU子
・U子なんか大きらい ・王様の耳はロバの耳
・手品のタネは? ・オバQがじゃまだ
・もてもてオバQ ・サンタはくろうする
・Qちゃん、また来たの ・O次郎のおよめさん
・バケラッタ ヤメラッタ ・空とぶ電話
・化け方ならいたいでヤス ・オバケ新聞社
・サテハラタカ ・鬼かんとくゴジラ
・天才教育 ・むっつりU子
・U子なんか大きらい ・王様の耳はロバの耳
・手品のタネは? ・オバQがじゃまだ
・もてもてオバQ ・サンタはくろうする
☆サテハラタカ仲間~♪
Yahooブログ ごって損やん サテハラタカ
→『むかーーーーーーーーし、呼んだ新オバケのQ太郎で「サテハラタカ」という話があった。朝から、正ちゃんのパパが玄関で忘れ物のないように「サ…財布」「テ…定期」「ハ…ハンカチ」「ラ…ライター」「タ…タバコ」「カ…鍵」/今でも、当時の本があったりするw おまじないのように呟いて、忘れ物をしないと言う話でした。』
※真似をして、忘れ物をしない呪文のようなものを作ったような気もする。
Yahooブログ ごって損やん サテハラタカ
→『むかーーーーーーーーし、呼んだ新オバケのQ太郎で「サテハラタカ」という話があった。朝から、正ちゃんのパパが玄関で忘れ物のないように「サ…財布」「テ…定期」「ハ…ハンカチ」「ラ…ライター」「タ…タバコ」「カ…鍵」/今でも、当時の本があったりするw おまじないのように呟いて、忘れ物をしないと言う話でした。』
※真似をして、忘れ物をしない呪文のようなものを作ったような気もする。
※冒頭のこのコマ、好きだなぁあ~~~~~~♪
●新装版「新オバケのQ太郎」が全4巻で発売決定、特設サイトで号外配布中
※そして、帯についているF先生の言葉。これは永久保存本ですわ♪
キビタキビオの脳髄
→『(前略)「これは、いい考えだよ!」と、早速取り入れることにしたQちゃん。だが、またいつものように滑稽な覚え方をして、笑わせてくれるのだ。まず、この手のQちゃんの空回りな行動になにかと犠牲になる弟・O次郎に「何か用はないかい?」と聞くも「ナイラッタ」とあっさり返されると、トイレに入ろうとしたところでトイレットペーパーを持ち出し「あとで返すから」といって無理矢理「カ」としてしまった。そもそも、持ち物とか用事はないのに強引に進める時点でかなりおかしい。続いて、今度はママに御用聞きにいくと、書いたばかりの「手紙をポストへ入れに行ってほしい」と言われて、これを「テ」と覚える。だが、まだ「カ、テ」の2つでは物足りない。そこで、今度は偶然訪問してきた牛乳屋の集金に対して玄関で対応しながら、「これをギュとおぼえる」と言っただけで「はらってくれないの?」と問う牛乳屋に対して「あん心しなさい。わすれないから」と言い残して放置。にしても「ギュ」ってwww /で、ここまで覚えたQちゃん。なんと、しばらく部屋に戻ってゴロ寝しながらまんじゅうとか食って、しばらくくつろいでしまう。トイレのOちゃんは? 牛乳屋の集金は? どうなる!?
でもって、「さて、そろそろ思い出そう」と、ようやく起き上がったQちゃん。「カ、テ、ギュ。ちゃんと覚えてる」と悦に浸る。もう、この「カ、テ、ギュ」という響きだけで、オレは笑いがこらえきれんwww 覚えた数もたった3つだし、なによりなぜ「ギュ」? やはりここがツボだwww「オバケのQ太郎」は、シリーズを通じてこういう奇想天外なマヌケっぷりをQちゃんが毎回披露して笑いをとるのが定番だ。だが、話はこれでめでたくは終わらないのもまた定番。Qちゃんは、たかだか数分の間に「カ、テ、ギュ」のワード以外はみんな忘れちゃっていたww「カ…………、はてな? カって何だろう?」、「テって、何だったかなあ」なんて調子。だが、「ギュは、牛にゅうだっ!」と速攻で思い出したところで、ギャグの爆弾が炸裂!Qちゃんは牛乳屋の待つ玄関には行かず、冷蔵庫の牛乳をゴクゴク飲んで「ギュはこれでよし」とご満悦。さらに、トイレで紙を持ちだされて「カミラッタ!」と騒ぎはじめたO次郎に気付き、「そうそう、カは紙だった」と、ママから預かった手紙を渡してしまう。それで、「テというのが、わからない。だが、あきらめないぞ。ええと………」と座り込み、文句タラタラの3人をよそ目に「うるさいなぁ、思い出せないよ!」と、最後まで自分がしでかしたことをに気が付かないまま話は終わるという……。オチ自体は割とあっさり締める形となっている。
つまり、ここでのインパクトは、やはり「カ、テ、ギュ」の響きのマヌケっぷりと、「ギュは牛乳だ!」で牛乳を飲みに行くという、頭の中は食べ物しかないQちゃんらしいカン違いの2点ということになる。一方で、この作品に笑った小学生時代から数年たった後、任天堂のビデオゲーム・ファミリーコンピューターが流行っていた時代に一世を風靡したプロ野球ゲームとして、オレは「プロ野球ファミリースタジアム(ファミスタ)」(ナムコ)と「ベストプレープロ野球」(アスキー)を熱心にプレーしていた時期があった。/このときは、まだゲームに登場する選手の名前が、正式にNPBの公認をとる手法が確立されていなかった時代。選手は実名ではなく、ひらがなでちょっと本当の名前をもじった形にして表現していた。「クロマティー→くろまて」、「篠塚→しのすか」という感じである。余談だが、そのために初期のファミスタシリーズは公式的なタイトルにはなっておらず、黒歴史となっているという。
で、当時、大洋で「スーパーカートリオ」と近藤貞雄監督が命名した俊足の1~3番の中には高木豊がいた。この高木の名前については、ファミスタ、ベストプレーともども「豊=ゆたか」の「ゆ」の字を小さくして「たかぎゅ」と表現していた。当時は5番打者にもう一人高木由一という左の好打者がいたためである。一見、オバQの話と何の関係があるのか? と思われがちだが、オレはこの「たかぎゅ」という名前を見るたびに、そのイントネーションが微妙に似ている「カ、テ、ギュ」を思い出して、一人で「ククク」と笑いを抑えるのに苦労していた。そして「逆も真なり」で、高木豊氏が野球中継の解説や『プロ野球ニュース』に出演している姿を見ると、「カ、テ、ギュ」を思い出し、また「クククク」。勝手に自分でリンクさせているくせに、「かんべんしてくれっ」となっていた。そんなんだから、取材で直接会った日にゃあ、当然、頭の中にオバQの「カ、テ、ギュ。ちゃんと覚えてる」、「ギュは牛乳だ。ギュはこれでよし」という場面がいの一番にフラッシュアップされてしまう。当然、笑いをこらえるのに必死である。高木さんを取材する場に同席したのは、担当編集者として『野球小僧』時代に「セカンドのポジショニング」と「プロ野球ニュース特集」のときの2回と、今回、『野球太郎』の「オレに訊くな」でライターとして取材をしたので、都合3回となった。今回あたりはもう慣れたもので、その笑いをうまいこと愛想笑いに転化して有効利用させてもらいました。』
※「たかぎゅ」www大爆笑。いやー、人に記憶の歴史あり。すべらない「サテハ
ラタカ」の話、といったところでした。
→『(前略)「これは、いい考えだよ!」と、早速取り入れることにしたQちゃん。だが、またいつものように滑稽な覚え方をして、笑わせてくれるのだ。まず、この手のQちゃんの空回りな行動になにかと犠牲になる弟・O次郎に「何か用はないかい?」と聞くも「ナイラッタ」とあっさり返されると、トイレに入ろうとしたところでトイレットペーパーを持ち出し「あとで返すから」といって無理矢理「カ」としてしまった。そもそも、持ち物とか用事はないのに強引に進める時点でかなりおかしい。続いて、今度はママに御用聞きにいくと、書いたばかりの「手紙をポストへ入れに行ってほしい」と言われて、これを「テ」と覚える。だが、まだ「カ、テ」の2つでは物足りない。そこで、今度は偶然訪問してきた牛乳屋の集金に対して玄関で対応しながら、「これをギュとおぼえる」と言っただけで「はらってくれないの?」と問う牛乳屋に対して「あん心しなさい。わすれないから」と言い残して放置。にしても「ギュ」ってwww /で、ここまで覚えたQちゃん。なんと、しばらく部屋に戻ってゴロ寝しながらまんじゅうとか食って、しばらくくつろいでしまう。トイレのOちゃんは? 牛乳屋の集金は? どうなる!?
でもって、「さて、そろそろ思い出そう」と、ようやく起き上がったQちゃん。「カ、テ、ギュ。ちゃんと覚えてる」と悦に浸る。もう、この「カ、テ、ギュ」という響きだけで、オレは笑いがこらえきれんwww 覚えた数もたった3つだし、なによりなぜ「ギュ」? やはりここがツボだwww「オバケのQ太郎」は、シリーズを通じてこういう奇想天外なマヌケっぷりをQちゃんが毎回披露して笑いをとるのが定番だ。だが、話はこれでめでたくは終わらないのもまた定番。Qちゃんは、たかだか数分の間に「カ、テ、ギュ」のワード以外はみんな忘れちゃっていたww「カ…………、はてな? カって何だろう?」、「テって、何だったかなあ」なんて調子。だが、「ギュは、牛にゅうだっ!」と速攻で思い出したところで、ギャグの爆弾が炸裂!Qちゃんは牛乳屋の待つ玄関には行かず、冷蔵庫の牛乳をゴクゴク飲んで「ギュはこれでよし」とご満悦。さらに、トイレで紙を持ちだされて「カミラッタ!」と騒ぎはじめたO次郎に気付き、「そうそう、カは紙だった」と、ママから預かった手紙を渡してしまう。それで、「テというのが、わからない。だが、あきらめないぞ。ええと………」と座り込み、文句タラタラの3人をよそ目に「うるさいなぁ、思い出せないよ!」と、最後まで自分がしでかしたことをに気が付かないまま話は終わるという……。オチ自体は割とあっさり締める形となっている。
つまり、ここでのインパクトは、やはり「カ、テ、ギュ」の響きのマヌケっぷりと、「ギュは牛乳だ!」で牛乳を飲みに行くという、頭の中は食べ物しかないQちゃんらしいカン違いの2点ということになる。一方で、この作品に笑った小学生時代から数年たった後、任天堂のビデオゲーム・ファミリーコンピューターが流行っていた時代に一世を風靡したプロ野球ゲームとして、オレは「プロ野球ファミリースタジアム(ファミスタ)」(ナムコ)と「ベストプレープロ野球」(アスキー)を熱心にプレーしていた時期があった。/このときは、まだゲームに登場する選手の名前が、正式にNPBの公認をとる手法が確立されていなかった時代。選手は実名ではなく、ひらがなでちょっと本当の名前をもじった形にして表現していた。「クロマティー→くろまて」、「篠塚→しのすか」という感じである。余談だが、そのために初期のファミスタシリーズは公式的なタイトルにはなっておらず、黒歴史となっているという。
で、当時、大洋で「スーパーカートリオ」と近藤貞雄監督が命名した俊足の1~3番の中には高木豊がいた。この高木の名前については、ファミスタ、ベストプレーともども「豊=ゆたか」の「ゆ」の字を小さくして「たかぎゅ」と表現していた。当時は5番打者にもう一人高木由一という左の好打者がいたためである。一見、オバQの話と何の関係があるのか? と思われがちだが、オレはこの「たかぎゅ」という名前を見るたびに、そのイントネーションが微妙に似ている「カ、テ、ギュ」を思い出して、一人で「ククク」と笑いを抑えるのに苦労していた。そして「逆も真なり」で、高木豊氏が野球中継の解説や『プロ野球ニュース』に出演している姿を見ると、「カ、テ、ギュ」を思い出し、また「クククク」。勝手に自分でリンクさせているくせに、「かんべんしてくれっ」となっていた。そんなんだから、取材で直接会った日にゃあ、当然、頭の中にオバQの「カ、テ、ギュ。ちゃんと覚えてる」、「ギュは牛乳だ。ギュはこれでよし」という場面がいの一番にフラッシュアップされてしまう。当然、笑いをこらえるのに必死である。高木さんを取材する場に同席したのは、担当編集者として『野球小僧』時代に「セカンドのポジショニング」と「プロ野球ニュース特集」のときの2回と、今回、『野球太郎』の「オレに訊くな」でライターとして取材をしたので、都合3回となった。今回あたりはもう慣れたもので、その笑いをうまいこと愛想笑いに転化して有効利用させてもらいました。』
※「たかぎゅ」www大爆笑。いやー、人に記憶の歴史あり。すべらない「サテハ
ラタカ」の話、といったところでした。
※個人的に、「カテギュ」という響きだけは覚えていたのだが、その先が
記憶から削げ落ちており、しかも「オバQ」はその後いろいろな規制を受
けて昔の単行本が再発売されることなく、ずーーっと、ここまで来たので、
マジ今回の新装版発売によって、45年ぶりくらいに、ストーリーの全貌
を蘇らせる事ができたワケだ!!あ~スカッとした。感謝感激ッス~~~♪
記憶から削げ落ちており、しかも「オバQ」はその後いろいろな規制を受
けて昔の単行本が再発売されることなく、ずーーっと、ここまで来たので、
マジ今回の新装版発売によって、45年ぶりくらいに、ストーリーの全貌
を蘇らせる事ができたワケだ!!あ~スカッとした。感謝感激ッス~~~♪
※改めて、Oちゃんのカワイサにやられた!
※そしてU子さんの身勝手ぶり、再確認。子供の頃はよく解らなかった
けど、今になってみるとQちゃんの苦悩に、リアルに共感できますワッw
●オバケのQ太郎[OP/ED]
●新・オバケのQ太郎 OP ED
●Obake no Q-taro 80's OP
※どの曲に一番思い入れがあるか、で世代が分別できそうじゃねー?
●モダンチョキチョキズ/新オバケのQ太郎
※マリさんカッコイイなぁ~~~~~♪
●ゾッとする話 「オバQの人形 」 松本人志
※これでしょうか、松ちゃんを窒息死させかけたオバQ人形はww
『晴天の友となるなかれ』 |
出展:BS朝日「昭和の偉人伝」2014年3月5日 |
発言者:森重久彌 (俳優 1913年5月4日~2009年11月10日) |
◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・
Amazon.co.jp 森繁自伝 (1977年) (中公文庫) 森繁久弥(著)
→『■登録情報:/文庫 230ページ /出版社 中央公論社 /ASIN: B000J8VDP4 /発売日 1977/07 /梱包サイズ 15.2 x 10.8 x 1.6 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.7 /■カスタマーレビュー:YN 5つ星のうち4.0 「文章の達人」2015年1月13日・・・以前に読んだことのある本でしたが、購入し再読してみました。自伝といわれる書籍はそれこそ山ほどありますが、森繁久彌の文章は品格があり心に響く誠実な透徹さがあります。自伝を著すならこうあらねばと思わせる一冊です。/saraa 5つ星のうち5.0 「日本人は満州でなにをして、なにをされたのか」2016年8月2日・・・前半は、戦時中にNHKのアナウンサーとして満州に赴任していた森繁の、敗戦直後の日々が綴られている。日本人が満州で中国人に対してなにをして、敗戦後にロシア人からなにをされたか。悲劇的状況を、喜劇として書き取るその冷静な眼に感服する。いや、それにさ、文章うまいよ、森繁さん。こんなにうまいとは知らなんだ。森繁さんのほかのご著書も読みたくなった。』
→『■登録情報:/文庫 230ページ /出版社 中央公論社 /ASIN: B000J8VDP4 /発売日 1977/07 /梱包サイズ 15.2 x 10.8 x 1.6 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.7 /■カスタマーレビュー:YN 5つ星のうち4.0 「文章の達人」2015年1月13日・・・以前に読んだことのある本でしたが、購入し再読してみました。自伝といわれる書籍はそれこそ山ほどありますが、森繁久彌の文章は品格があり心に響く誠実な透徹さがあります。自伝を著すならこうあらねばと思わせる一冊です。/saraa 5つ星のうち5.0 「日本人は満州でなにをして、なにをされたのか」2016年8月2日・・・前半は、戦時中にNHKのアナウンサーとして満州に赴任していた森繁の、敗戦直後の日々が綴られている。日本人が満州で中国人に対してなにをして、敗戦後にロシア人からなにをされたか。悲劇的状況を、喜劇として書き取るその冷静な眼に感服する。いや、それにさ、文章うまいよ、森繁さん。こんなにうまいとは知らなんだ。森繁さんのほかのご著書も読みたくなった。』
●森繁対談 第1回 ゲスト高倉健 ダイジェスト 1982年(昭和57年)放送
※健さん、このとき51歳(若っ!)森繁さん69歳での対談です。
奇しくもお二人とも命日が同じになったのでした。
※健さん、このとき51歳(若っ!)森繁さん69歳での対談です。
奇しくもお二人とも命日が同じになったのでした。
●知床旅情 森繁久彌
※『男はつらいよ』のゲスト出演ぐらいだなー、リアルタイムで観たことある演技というと。
※『男はつらいよ』のゲスト出演ぐらいだなー、リアルタイムで観たことある演技というと。
“同じことを言っても西洋人の言ったことであれば立派なものとされる。大勢はかくの如きものである(『戦後文界の趨勢』より)” |
【1903年5月4日の漱石】東大の教壇に立つも、いきなり生徒から総スカンを食らう
明治36年(1903)5月4日、今から113年前の今日、36歳の漱石は、東京帝国大学文科大学で英文科の学生を相手に「英文学概説」の講義を行なっていた。漱石が東大の講師に任命されたのはこの年の4月15日。その5日後から教壇に立ったので、約2週間が経過していた。総じて学生たちの授業態度は悪く、ある者は頬杖をついて聞き流し、ある者はペンも執らず居眠りをしているというありさまだった。/漱石の前任者は、ギリシア生まれのイギリス人で文学者の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)であった。八雲は3月末に退任していたが、学生たちの間では高い人気があり、留任運動が起きたほどだった。その反動があって、後任者が誰であるかを知ったときから学生たちは、「夏目金之助とかいう、『ホトトギス』に俳句を寄稿している、田舎の高等学校教授上がりの先生がくるらしい」などと噂し、顔を見る前から反抗心をあらわにしていたのだった。
西洋人の教師は偉くて、日本人の先生はたいしたことはない。そんないわれなき先入観も、学生たちの頭の中にこびりついていたのかもしれない。実際に彼らの眼前に現れた漱石は、ハイカラ(高襟)のシャツと体にぴたりとなじんだフロックコートを着て、ぴかぴかの革靴をはき、髪は左右にきれいになでわけ、左右の先端をぴんとはねあげてコスメチックで固めたカイゼルひげを純白のハンカチを使ってさっと磨く、いかにも洋行帰り風の紳士だった。そんな漱石の身なりや態度につい圧倒されてしまうだけに、かえって反発したくなるのが若い自意識というものだった。/「英文学概説」と題した講義の冒頭で、漱石が「諸君のご希望によっては英語でお話してもよろしいですが…」と挨拶したのも、学生たちには面白くなかったのかもしれない。偉そうに反抗していても、そう言われてしまうと、英語での講義についていく自信のある学生はひとりもなく、希望者はゼロ。これを受けて漱石は、必要に応じて英語の発音について注意を与えながらも、日本語で授業を進めていくやり方を採用していた。
そうした漱石の英文学者としての高い実力、人間的な懐の深さに触れ、学生たちの反発心はほどなく高い人気へと変転していくのはいうまでもない。少しさかのぼれば、松山時代の漱石にも、こんな逸話があったのを思い出す。新調の紺サージの背広に赤革の靴という出で立ちで教壇に現れた漱石は、まずは前任者の英国人教師とそっくりの流暢な発音で生徒たちの度肝を抜いた。続いて、テキストの訳読をめぐって生徒の間違いを指摘した。「それでも字引にあったぞな、もし」と食い下がる生徒に、漱石は尋ねる。「何の字引だ?」生徒は得意満面で、「棚橋一郎先生の字引じゃがな、もし」と言う。おそらく生徒は、教育者の棚橋一郎(現在、東京都文京区にある郁文館中学校・高等学校の創立者で後に衆議院議員)が米国の英語学者イーストレーキとの共編で刊行した『ウェブスター氏新刊大辞書 和訳字彙』のことを言ったのだろう。この辞書は、当時の日本でもっとも信頼されていた権威ある辞書のひとつとして、英語を学ぶ者たちの間に広く普及していた。ところが漱石先生、ためらうことなく、さらりとこう言う。「そうか、それは辞書が間違っている。直しておけ」生徒は驚嘆した。授業が終わって教室を飛び出すと、こう叫んだ。「今度の先生は偉いぞう。字引を直せちゅうがあ」/時を経て、明治36年(1903)時点のいま、東大の教壇で「英文学概説」を講ずる漱石が、この棚橋一郎が創立した郁文館中学に隣接する家に住んで、そこの生徒たちの粗暴ぶりに少々悩まされているのは、不思議な縁といっていい。
なお、漱石は、このように、小泉八雲と間接的に敵対するような形の関わり合いを持つことになっても、見る目を曇らせることはなかった。八雲の教育者としての業績や日本の文化を海外へ紹介した著作も正しく評価し、他の大学教師連中とは一線を画すべき存在として賞賛していた。それは、小説『三四郎』の中の、次のような記述からも読み取れる。《ポンチ画の男は、死んだ小泉八雲先生は教員控室へはいるのが嫌で講義が済むといつでもこの(池の)周囲をぐるぐる廻ってあるいたんだと、あたかも小泉先生に教わったようなことを言った。なぜ控室へはいらなかったのだろうかと三四郎が尋ねたら、「そりゃ当り前ださ。第一彼らの講義を聞いても解るじゃないか。話せるものは一人もいやしない」》
●日本を愛した 小泉八雲 の言葉、「いったい、日本の国では、どうしてこんなに樹木が美しいのだろう。」
●3分で分かる小泉八雲の怪談「大亀」