※高須院長がお誕生日を迎えられて・・・
院長ブログ かっちゃん誕生日前夜祭
→『来る1月22日はかっちゃんの73歳の誕生日である。今宵はプレ誕生日パーティー!
かっちゃんの誕生日を祝ってくれる諸君に景品をだす。太ったときの脂肪吸引は有料だぜ🎵』
院長ブログ かっちゃん誕生日前夜祭
→『来る1月22日はかっちゃんの73歳の誕生日である。今宵はプレ誕生日パーティー!
かっちゃんの誕生日を祝ってくれる諸君に景品をだす。太ったときの脂肪吸引は有料だぜ🎵』
※最新号である。漫画タイトルが「ダーリンは73歳」に替わっていたー。
今後,「~74歳」「~75歳」と増えていくのだろうが,何となくカウントダウン
しているような妙な気分にもなるなw ま、長生きして、連載終了のほうが先に
来るようなら問題ないんだろうけどー。
院長ブログ さよならサッチー 2018-01-25
→『11時から野村夫妻のデート場所だったホテルニューオータニで、サッチーのお別れ会。「かっちゃんのためなら何でもやる」と僕の母と意見が一致していたサッチー。母と義姉妹の契りをしていたサッチー。花の好みまで母とそっくり。母と妻が相次いで他界したときに落ち込んでいる僕を元気づけてくれた野村夫妻。あのときはありがとうございました。
ノムさん、気丈にふるまっている。野村夫妻には借りばかりだ。なんとか恩返ししたいと思います』
→『11時から野村夫妻のデート場所だったホテルニューオータニで、サッチーのお別れ会。「かっちゃんのためなら何でもやる」と僕の母と意見が一致していたサッチー。母と義姉妹の契りをしていたサッチー。花の好みまで母とそっくり。母と妻が相次いで他界したときに落ち込んでいる僕を元気づけてくれた野村夫妻。あのときはありがとうございました。
ノムさん、気丈にふるまっている。野村夫妻には借りばかりだ。なんとか恩返ししたいと思います』
※かっちゃんのブログには、切なる感謝の思いが綴られるも、ばらっち漫画では
西原さんが横にいるにもかかわらず、「CMのあの変な女降ろして、全部私にし
なさいよ!」とおたけぶ、意地の悪い婆ァとしか紹介されていないw サッチーに
対する姿勢は、かっちゃんと西原で好対照なんだワイナーー。まぁ,お亡くなりにな
ったからと言って、それまでの態度を豹変させたりすることのない、正直さが西原
漫画のウリではあるんでしょうけどォーーーーー。
西原さんが横にいるにもかかわらず、「CMのあの変な女降ろして、全部私にし
なさいよ!」とおたけぶ、意地の悪い婆ァとしか紹介されていないw サッチーに
対する姿勢は、かっちゃんと西原で好対照なんだワイナーー。まぁ,お亡くなりにな
ったからと言って、それまでの態度を豹変させたりすることのない、正直さが西原
漫画のウリではあるんでしょうけどォーーーーー。
※そしてまたまた下ネタのオチ。安定の内輪ウケスタイルが確立されちゃったネー
☆では、院長関連の動画を2つほど・・・
●YES!憲法改正BY高須院長
●今夜はしゃべら内藤 高須院長が出てた超ユル~イ番組w
※声でかろうじて先生とわかるけど、これ黙ってたら120%別人やもんなーw
※声でかろうじて先生とわかるけど、これ黙ってたら120%別人やもんなーw
※司会の人、なんて名前だったか忘れちゃっててモヤモヤしたー。
そうや、しましまーんずやっ!!
『死後の世界はないのだと心に決めた。』 |
出展:「死を見つめる心 ガンとたたかった十年間」 |
発言者:岸本英夫(宗教学者,東京大学教授 1903年6月27日~1964年1月25日) |
◎関連書籍、楽曲、映画(ドラマ)などなど・・・
Amazon.co.jp 死を見つめる心 (講談社文庫) 岸本英夫 (著)
→『■内容紹介:人間が死というものに直面したとき、どんなに心身がたぎり立ち、猛り狂うものか──すさまじいガンとの格闘、そしてその克服と昇華……言語を絶する生命飢餓状態に身をおいた一宗教学者が死を語りつつしかも、生きることの尊さを教える英知と勇気の稀有な生死観。第18回毎日出版文化賞受賞。
/著者について・・・1903年兵庫県明石市生まれ。東京大学卒業後、ハーバード大学留学。東大教授、東大付属図書館長を兼任。文学博士。1954年渡米中ガンにおかされ、激務のなかで闘病10年、1964年1月逝去。本書はその闘病中の心の記録をまとめたもので、1964年度毎日出版文化賞受賞。主な著作『人間と宗教』他多数。/■登録情報:/文庫 226ページ /出版社 講談社 /言語 日本語 /ISBN-10: 4061340247 ISBN-13: 978-4061340244 /発売日 1973/3/15 /梱包サイズ 14.8 x 10.4 x 1.4 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.6 /■カスタマーレビュー:Student 5つ星のうち5.0 「現代人の生死の問題へ、ひとつの解答を示す」2014年10月13日・・・死生観は人さまざま・・・とはいえ現代の日本人のごく普通の見方は、「がんなどで死の宣告をされたときに、死がとてつもなく怖い、どうしたら良いのか分からない。かといって特定の宗教の熱心な信者ではなく、来世を信じてはいない」 と言ったところではないでしょうか。それに対して、著者が次のような解決法に行きつくまでの軌跡をつづった本です。/祐屬砲論犬ていることだけがあり、死とは別の状態へ移ることではなく、与えられている生命がなくなるということ。⊃誉犬砲ける他の多くの別れと同様に、死とはこの世に別れを告げること。生死の問題は「あの世」の問題として解決するのではなく、この現実の人生の中に解決を求めなければならない。い修琉譴弔硫鯏「よく生きること」である。一瞬一瞬を大切に生きることである。/がんの宣告をされた人はもとより、多くの現代人に参考になる本だと思います』
→『■内容紹介:人間が死というものに直面したとき、どんなに心身がたぎり立ち、猛り狂うものか──すさまじいガンとの格闘、そしてその克服と昇華……言語を絶する生命飢餓状態に身をおいた一宗教学者が死を語りつつしかも、生きることの尊さを教える英知と勇気の稀有な生死観。第18回毎日出版文化賞受賞。
/著者について・・・1903年兵庫県明石市生まれ。東京大学卒業後、ハーバード大学留学。東大教授、東大付属図書館長を兼任。文学博士。1954年渡米中ガンにおかされ、激務のなかで闘病10年、1964年1月逝去。本書はその闘病中の心の記録をまとめたもので、1964年度毎日出版文化賞受賞。主な著作『人間と宗教』他多数。/■登録情報:/文庫 226ページ /出版社 講談社 /言語 日本語 /ISBN-10: 4061340247 ISBN-13: 978-4061340244 /発売日 1973/3/15 /梱包サイズ 14.8 x 10.4 x 1.4 cm /おすすめ度 5つ星のうち 4.6 /■カスタマーレビュー:Student 5つ星のうち5.0 「現代人の生死の問題へ、ひとつの解答を示す」2014年10月13日・・・死生観は人さまざま・・・とはいえ現代の日本人のごく普通の見方は、「がんなどで死の宣告をされたときに、死がとてつもなく怖い、どうしたら良いのか分からない。かといって特定の宗教の熱心な信者ではなく、来世を信じてはいない」 と言ったところではないでしょうか。それに対して、著者が次のような解決法に行きつくまでの軌跡をつづった本です。/祐屬砲論犬ていることだけがあり、死とは別の状態へ移ることではなく、与えられている生命がなくなるということ。⊃誉犬砲ける他の多くの別れと同様に、死とはこの世に別れを告げること。生死の問題は「あの世」の問題として解決するのではなく、この現実の人生の中に解決を求めなければならない。い修琉譴弔硫鯏「よく生きること」である。一瞬一瞬を大切に生きることである。/がんの宣告をされた人はもとより、多くの現代人に参考になる本だと思います』
本の紹介
→『◎ 人間にとって何より恐ろしいのは、死後の世界があるか、ないかということより、あるかないかわからないままに、生命欲に圧倒され、無理に、あると自分にいいきかせて、なぐさめようとする、しかし、どうしても疑いがおこってきて、煩悶するようになることではないか。それが、一番悲惨ではないか。こう考えて、私は、どちらかにきめてしまえば覚悟がつくかもしれないと思った。そして、ひとつ、悪い方に決めてしまおうということで、死後の世界はないのだと心にきめたのである。死後、極楽だの天国だのがあるという考えかたで自分を救おうとしないで、なくても耐えていくことを考えはじめたのである。死後のことはわからない、という建前のもとに、自分の生命欲、生命飢餓感とたたかっていくことにしたのである。◎ 私は、一個の人間として、もっぱらどうすれば「よく生きる」ことができるかということを考えている。しかし、そう生きていても、そこに、やはり生命飢餓状態は残る。一日々々をよく生きながら、しかも同時に、つねに死に処する心構えの用意をつづけなければならない。私は、生命をよく生きるという立場から、死は、生命に対する「別れのとき」と考えるようになった。立派に最後の別れができるように、平生から、心の準備を怠らないように努めるのである。◎ 以前は、死んだらどうなるかという恐怖をごまかすために、むしょうに、がむしゃらに、働いてきた。しかし、今は、それほど、こわくない。もう少し、静かに人生をくらしてゆく方が、ほんとうの人生ではないかと考えるようになった。』
→『◎ 人間にとって何より恐ろしいのは、死後の世界があるか、ないかということより、あるかないかわからないままに、生命欲に圧倒され、無理に、あると自分にいいきかせて、なぐさめようとする、しかし、どうしても疑いがおこってきて、煩悶するようになることではないか。それが、一番悲惨ではないか。こう考えて、私は、どちらかにきめてしまえば覚悟がつくかもしれないと思った。そして、ひとつ、悪い方に決めてしまおうということで、死後の世界はないのだと心にきめたのである。死後、極楽だの天国だのがあるという考えかたで自分を救おうとしないで、なくても耐えていくことを考えはじめたのである。死後のことはわからない、という建前のもとに、自分の生命欲、生命飢餓感とたたかっていくことにしたのである。◎ 私は、一個の人間として、もっぱらどうすれば「よく生きる」ことができるかということを考えている。しかし、そう生きていても、そこに、やはり生命飢餓状態は残る。一日々々をよく生きながら、しかも同時に、つねに死に処する心構えの用意をつづけなければならない。私は、生命をよく生きるという立場から、死は、生命に対する「別れのとき」と考えるようになった。立派に最後の別れができるように、平生から、心の準備を怠らないように努めるのである。◎ 以前は、死んだらどうなるかという恐怖をごまかすために、むしょうに、がむしゃらに、働いてきた。しかし、今は、それほど、こわくない。もう少し、静かに人生をくらしてゆく方が、ほんとうの人生ではないかと考えるようになった。』
※故・小林麻央さんのオフィシャルブログ 本日の内容。
(originally posted on 2017-02-20 | 13:42:48)
It’s windy outside but at least it’s warm.
I tried to push my spirit up with this Jun Ashida’s knit sweater today.
Yeeey I still have the girly heart lol
I also tried to put these earrings on, which is a quite unusual thing to do for me.
“やろうと思わなければ、横に寝た箸を竪にすることもできん(『虞美人草』より)” |
【1903年1月25日の漱石】留学先のロンドンから帰国し、門弟と鮨を味わう
今から113年前の今日、すなわち明治36年(1903)1月25日、数え37歳の漱石は、牛込区矢来町(現・新宿区矢来町)の中根重一邸の離れにいた。中根重一は漱石の妻・鏡子の父親で、貴族院書記官長をつとめていた人物である。2年間のロンドン留学を終え帰国した漱石は、身の回りの荷物の片づけを少しずつ進めていた。仮住まいであり、遠からず貸家を探して引っ越す予定。本格的な片づけは、その新居でなされるべきものだった。
漱石は昨日の朝、新橋停車場に着いたばかりだった。前年の12月5日に英国を後にし、船中で年を越し、1月23日夜に神戸上陸。そこから夜行列車に揺られ、24日午前9時30分に懐かしい東京の土を踏んだのだった。鏡子と重一は国府津まで出迎えにいった。新橋停車場には、親戚に伴われた、まだ幼い長女の筆子の姿もあった。
仮住まいで片づけをしていると、夜、寺田寅彦が訪ねてきた。寅彦は昨日の朝も、漱石を新橋まで出迎えにきてくれていた。漱石は寅彦に、荷物の中から英国の美術館にある名画の複製などを見せ、こんなふうに言った。「気に入ったものがあったら、持っていきたまえ。遠慮はいらないよ」
その後、鮨の出前をとった。当時の欧州では口にできない懐かしい日本の味。漱石が海苔巻を食べると寅彦も海苔巻を食べる。漱石が玉子に手を伸ばすと寅彦もすかさず玉子を口に入れる。漱石が海老を残すと寅彦も残す。無意識のうちに、そこまで師の影を追っている寅彦だった。そんな門弟の姿を、漱石先生はおかしな奴だと思って見ていたことだろう。漱石亡きあと、寅彦が大正6年に詠んだこんな短歌がある。
《先生と対ひてあれば腹立しき世とも思はず小春の日向》
《此憂誰れに語らん語るべき一人の君を失ひし憂》
《此憂誰れに語らん語るべき一人の君を失ひし憂》
●LINEでそば、すし、牛丼…「出前」サービスはじまる(2017年7月)
※便利な分、手違い・不具合も増えそうな気がするんですけどーーー。
●サンドウィッチマン コント 寿司屋と出前 (7分14秒)
※「出前」はM-1でキングを獲った至高のネタ。寿司ネタ同様新鮮だ!
いつまで経っても笑えるなぁ。