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●ジャイアント馬場激動の30年
戦後史の激動 『1964年のジャイアント馬場』17回忌のジャイアント馬場を思い出す
→『『1964年のジャイアント馬場』(柳澤健著、双葉社)。以前からご紹介しようと思っていた書籍です。やはりジャイアント馬場17回忌の今日がそれにはピッタリかと思います。2メートルを超す長身で巨人軍に入団した高い身体能力を持った馬場正平。日本プロレス入門後は、プロレスの本場・アメリカで世界三大タイトル連続挑戦するなど、日本人でたったひとりの「世界標準の男」だったことを証明するノンフィクションです。/同書は、『週刊大衆』に連載されていた同名の読み物を加筆修正してまとめたものです。1964年というのは、おそらくはジャイアント馬場が身体的にも全盛であった時期です。(中略)悪いところには目をつぶるのではなく、いいところも悪いところも、いい時も悪い時も隠さずに書いているのです。そして亡くなる直前の件は、もう17回忌だというのに、読んでいて思わず目頭が熱くなる箇所もあります。おそらくジャイアント馬場ファンなら読まれているとは思いますが、晩年しか知らず、「ジャイアント馬場の何がすごかったの?」という方々にも読んでいただきたい力作です』
※もう17回忌なんですねーー。感慨深いッスわ。亡くなる直前の記述、ワチシも
思わず涙しそうになりました。プロレスファン必読!!だと思います~~ぅ。
→『『1964年のジャイアント馬場』(柳澤健著、双葉社)。以前からご紹介しようと思っていた書籍です。やはりジャイアント馬場17回忌の今日がそれにはピッタリかと思います。2メートルを超す長身で巨人軍に入団した高い身体能力を持った馬場正平。日本プロレス入門後は、プロレスの本場・アメリカで世界三大タイトル連続挑戦するなど、日本人でたったひとりの「世界標準の男」だったことを証明するノンフィクションです。/同書は、『週刊大衆』に連載されていた同名の読み物を加筆修正してまとめたものです。1964年というのは、おそらくはジャイアント馬場が身体的にも全盛であった時期です。(中略)悪いところには目をつぶるのではなく、いいところも悪いところも、いい時も悪い時も隠さずに書いているのです。そして亡くなる直前の件は、もう17回忌だというのに、読んでいて思わず目頭が熱くなる箇所もあります。おそらくジャイアント馬場ファンなら読まれているとは思いますが、晩年しか知らず、「ジャイアント馬場の何がすごかったの?」という方々にも読んでいただきたい力作です』
※もう17回忌なんですねーー。感慨深いッスわ。亡くなる直前の記述、ワチシも
思わず涙しそうになりました。プロレスファン必読!!だと思います~~ぅ。
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MERUMO NEWS 藤波辰爾が初めて語った!「わが憧れのジャイアント馬場」
→『「今でも忘れられないシーンがあります。日本プロレス時代の地方巡業中、葉巻をくわえた馬場さんが、列車から駅のホームに降りたったんです。黒山の人だかりとなったファンを前に馬場さんは立ちどまり、プワ~と煙を吐き出す。その姿がカッコよくてねえ……。やっぱり馬場さんは、スターとして自分をどうファンに見せたらいいのかという"自分作り"が、すごくうまかった。あの時代、プロレス=ジャイアント馬場。力道山先生が亡くなられた後、あの大きな体を含めて、馬場さんはプロレスというスポーツをすべて象徴していましたし、ご自身にもその自覚があったと思います。本場アメリカ仕込みのファイトスタイルがまたカッコよくてね。32文砲(ドロップキック)を初めて見たときなんて、目が釘づけでした。たとえて言うと、初めて羽田空港を離陸したジャンボジェット機を見た時のような……そんな、規格外の衝撃がありましたよ」
/「一度だけ、旅館の風呂場で馬場さんの背中を流させてもらったことがあるんです。当時、馬場さんと猪木さんはBI砲として組むことが多く、同じ頃に旅館に到着する。それで一緒に風呂に入って、僕が猪木さん、佐藤さんが馬場さんの背中を流すんです。あるとき、馬場さんの背中を流していた佐藤さんが茶目っ気を出してね。代わろうと言うから代わったら、もう背中が麻雀卓(笑)。とにかくデカくて、背伸びして背中を流したことはよく覚えています。途中で入れ替わったことを馬場さんはわかっていたのかなあ……。トップスターだった馬場さんと若手が一緒に練習をすることはなかったんですけど、ある夕方、代官山の日本プロレスの合宿所に、たまたま馬場さんが顔を出した。そのまま練習場のリングに上がると、僕に向かって"おい、ちょっと上がれ"。緊張と喜びで固まりましたね。それでヘッドロックをかけられたんですが、文字どおり一歩も動けない。あの"痛いうれしさ"は今でも忘れられませんよ(笑)」』
→『「今でも忘れられないシーンがあります。日本プロレス時代の地方巡業中、葉巻をくわえた馬場さんが、列車から駅のホームに降りたったんです。黒山の人だかりとなったファンを前に馬場さんは立ちどまり、プワ~と煙を吐き出す。その姿がカッコよくてねえ……。やっぱり馬場さんは、スターとして自分をどうファンに見せたらいいのかという"自分作り"が、すごくうまかった。あの時代、プロレス=ジャイアント馬場。力道山先生が亡くなられた後、あの大きな体を含めて、馬場さんはプロレスというスポーツをすべて象徴していましたし、ご自身にもその自覚があったと思います。本場アメリカ仕込みのファイトスタイルがまたカッコよくてね。32文砲(ドロップキック)を初めて見たときなんて、目が釘づけでした。たとえて言うと、初めて羽田空港を離陸したジャンボジェット機を見た時のような……そんな、規格外の衝撃がありましたよ」
/「一度だけ、旅館の風呂場で馬場さんの背中を流させてもらったことがあるんです。当時、馬場さんと猪木さんはBI砲として組むことが多く、同じ頃に旅館に到着する。それで一緒に風呂に入って、僕が猪木さん、佐藤さんが馬場さんの背中を流すんです。あるとき、馬場さんの背中を流していた佐藤さんが茶目っ気を出してね。代わろうと言うから代わったら、もう背中が麻雀卓(笑)。とにかくデカくて、背伸びして背中を流したことはよく覚えています。途中で入れ替わったことを馬場さんはわかっていたのかなあ……。トップスターだった馬場さんと若手が一緒に練習をすることはなかったんですけど、ある夕方、代官山の日本プロレスの合宿所に、たまたま馬場さんが顔を出した。そのまま練習場のリングに上がると、僕に向かって"おい、ちょっと上がれ"。緊張と喜びで固まりましたね。それでヘッドロックをかけられたんですが、文字どおり一歩も動けない。あの"痛いうれしさ"は今でも忘れられませんよ(笑)」』
●馬場vsサンマルティノ - August 7, 1968
NWA International Title Japan wrestling (27分)
※実況の「ジャイアンツ馬場」というのがいちいち気になるー
読売ジャイアンツの馬場、と聞こえてしまう~~w
NWA International Title Japan wrestling (27分)
※実況の「ジャイアンツ馬場」というのがいちいち気になるー
読売ジャイアンツの馬場、と聞こえてしまう~~w
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